八幡宮碑

八幡宮碑に関するメモ
仙台市太白区八本松1丁目12番地内の広瀬川堤防上にある八幡宮碑のメモです。高さ1.5m、厚さ0.4m。石材は安山岩。1976年(昭和51年)の堤防工事の際に設置されました。1965年(昭和40年)には堤防内側に半ば埋まっている状態で存在が確認されています。石碑には次のようなことが記されています。記された文字はあまり上手ではないということです。
正面 八幡宮
   文化5年(1808年)11月吉日建立
   栗原惣兵衛以下26名の連名
裏面 享和元年(1801年)に山形での百姓一揆の際に、代官が加勢を請うてきたので、仙台藩主の命により足軽頭である牛坂栄蔵が足軽59名を率い国境の笹谷峠に出兵し帰陣したこと。蝦夷地に軍艦が現れ、幕府が仙台藩に警護するように命じたため、文化5年(1808年)に牛坂栄蔵が足軽を少人数率い国後島におもむき、無事帰国したこと。
19世紀初頭の仙台藩の動向を記す貴重な石碑であることがわかります。
この石碑は堤防工事の際に掘り出され、地元の人々の努力により現在地に設置されました。もともとこの地にあったものではありません。戦後、この地にあった粟野さんという砂利採取砕石会社が搬入した砕石原石に混入していたもので、仙台市内北山の方から来たということがわかっています(2012年6月現在)。
地元八本松地域の皆さんは6月最初の日曜日(建立日が6月17日)に例祭をおこなっています。いつも榊が供えられて皆さんに大切にされていることがわかります。
八幡宮碑の時代背景
百姓一揆について
享和元年(1801年)6月23日に山形県村山郡の農民らが米価高騰下での米買い占めなどに反対して打ちこわしを行いました。村山一揆と言われます。7月7日に米沢藩がこの一揆を鎮圧していますが、仙台藩も笹谷峠に出陣し、警備等を行っています。
蝦夷地警備について
仙台藩蝦夷地警備については次のようになります。
文化3年(1806年)9月 樺太にロシアの軍艦が現れ、アイヌ人、番人等を連行する。
文化4年(1807年)4月 択捉島にロシアの軍艦が現れ、物品を略奪した上、番人等も連行する。
このような事実を受けて、幕府は11月1日、仙台藩に対し、択捉・国後・箱館に600人の兵を派遣し、翌年1月までに現地に到着するように命ます。
なお、仙台藩以外に蝦夷地出兵を命じられたのは次の藩です。弘前藩盛岡藩(1804年8月に出兵命令)、秋田の久保田藩・山形の鶴岡藩(1807年5月に出兵命令)、会津若松藩(1808年12月に出兵命令)。
文化5年(1808年)、仙台藩は、1月12日に択捉島へ660余人、国後島へ560余人、2月11日に箱館へ800余人の派遣命令をくだします。幕府の要求の3倍以上の人数です。
その後ですが、一番遅く、出発し戻ってきた国後派遣隊についてみると次のようになります。        
2月12日 国後派遣隊出発。
4月29日 国後派遣隊国後へ到着
9月18日 国後派遣隊、警備を終え、国後島より箱館に到着。
11月1日 国後派遣隊、仙台城下へ帰着。

外国船は来航しませんでしたが、記録されている死者は68名(多くは病死)。総経費6万両。仙台藩は大藩としての面目を保ちましたが、大きな痛手を被ったと言えます。
八幡宮碑はこのような19世紀初めの仙台藩の歴史を物語る貴重な「文化財」なのです。しかし、残念なことに、文化財として指定・登録はされていません。